しききゅうていあと子規旧邸跡子規の生い立ちの家跡小説では、中ノ川は川幅が2mあり、水が飲めるほどに美しく、子規の住んだ正岡家屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2歳〜16歳で上京するまで過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立つ。末広学校は子規が最初に入った小学校。ここに入った時、、まだまげを結っていたので、「まげのぼさん」といわれた。またこの地には正岡家累代の墓があったが、昭和2年に正宗寺に移転された。※見学は事前予約が必要しきたんじょうちあと子規誕生地跡えんこうじ円 光 寺子規が生まれたところ慶応3年(1867)、子規は正岡常尚の次男として花園町のこの地に生まれる。通称升(のぼる)。翌々年、湊町新町に引っ越した。母・八重は、子規の赤ん坊の時のことを、丸い顔で鼻が低い妙な顔と話していたという。花園町通りのリニューアルに伴い俳句ポストを設置。松山市花園町 松山市駅から徒歩5分9時〜17時(入館は16時40分まで) 無休 20台名僧・明月がいた寺銀天街にある寺。書に勝れた明月(めいげつ)は7代目住職で、明治29年、明月上人の百回忌にあたり、子規が句会を催した。「風呂吹を喰ひに浮世へ百年目 子規」正宗寺境内に復元されている子規の生い立ちの家の一部。当時を彷彿とさせる勉強部屋には、遺墨、遺品が展示されている。小説の中で、中学3年の少年が書斎を持っているとは、といって真之が驚いた。境内には子規の埋髪塔や内藤鳴雪の髯塔、虚子の筆塚、ほととぎす発行6,000号記念の句碑、坊っちゃん列車の客車などがある。愛媛県指定史跡『坂の上の雲』のまち松山
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